「発達」を語り直したい
今週、先生会が開かれました。
夏休みに入り、先生もゆったりできているかなと思いきや、そんなことは全くありませんでした。夏休みに入った後も忙しく、夏休みまではさらに忙しく、とにかく忙しすぎて心身ともにギリギリのところで耐えている教育現場の話を聞きました。先生が声を揃えて言うのが、「教員が足りない」ということです。先生の欠員がある状態で新年度がスタートし、産休や育休、病休に加え、他校への研修やコロナ療養等でさらに先生が足りなくなります。先生1人の業務でさえ膨大であるのに、他の先生の業務もカバーする必要が出てきます。そんな状況なので、休むと他の先生に迷惑がかかるという罪悪感と、誰かが子ども達を見なければという使命感から先生は教壇に立ち続け、負担が何重にも重なっていきます。
このような現状に対し、残業代の増額や保護者との連絡ツールのIT化などの議論がありますが、会の中ではとにもかくにも「教員を増やしてほしい」という思いが1番でした。安易な一般化はできませんが、少なくとも会に参加した人達からは、学校現場の人員不足による切迫感がよく伝わってきました。
先生達の多忙さからくる辛さを知ることなしに、訪問支援で私から何かを要求したり提案したりすることはできないなと改めて思いました。そして自分の問題として引き付けた時に、私にできることは何だろう?という問いを突き付けられた気がしました。
考えられる応答の1つとして、教員数を増やすように声を上げていくことが挙げられます。教員数を増やす理由を考える時に、業務の軽減であることはもちろんなのですが、曲がりなりにも発達に関する研究と実践を行っている私の立場からは、もう少し別の語り口ができるのではと思うようになりました。それは、学校教育にまつわる「発達」を語り直すことによって、教員の重要性(必要性)を再認識していくことです。
「発達」が「能力」と強く結びついていることは、多くの研究者から指摘されていることです(例えば津田(2012)や佐藤(2022))。日本の学校教育では、この「発達=能力」の視点で、子どもを把握・評価する傾向が強いです。点数が取れることを期待する、席に長く座れることが模範的な姿とする、謝れるようになったことを褒める。私自身もそのように思ってしまう部分もありますが、このような子ども理解が常に先立つものであると、「できるとされた子」と「できないとされた子」の分断や、「できないとされた子」への抑圧につながることは容易に想像できます(不登校増加の一因でもあると思います)。
川田(2016)が指摘しているように、日本の学校における一般的な意味での「教育」とは、「同じような潜在的能力を有すると見なされる同年齢の子どもを他の社会的領域(特に保護者の影響圏)から分離して集め、既存知識の教授と定着において効率性と正確性を高めるように改良が重ねられてきた、きわめて特殊な実践の様式」です。学校教育は、知識伝達のための効率性と正確性が求められる場として長年機能していました。日本経済の発展や人的資本論の高まりに呼応するように、効率性や正確性を内包した「発達=能力」の観点から、いかに子どもを伸ばしていくかという言説が多く語られてきました。しかし教員の役割はその1点に集約されるものではないでしょうし、それで持って教員数を増やすべきだというのは十分な説得力を持ちえないと思われます。「発達=能力」の話であれば、タブレットを配布して「効率的かつ正確に」個別学習を進めようとしたり、少ない教員数の中で「効率的かつ正確に」多くの子どもに教える方策を探すという方向で解決しようとする議論になり、教員を増やさなくてもすむ方法に知力を費やすことにもなりえます。
障がいや貧困、ジェンダーなど子どものニーズの多様化が叫ばれている現在、一人一人の子(や周りとの関係性)が持つ違いを、「発達的豊かさ」として教育実践に生かしていく人が、学校現場には求められています。その専門性を持っている人が教員であり、専門性を発揮できる余裕が持てるだけの教員数の確保が必須になります。
私がしていきたいこと。それは「発達」を語り直す、つまり「発達=能力」を問うていくことで、これまでとは異なる語り口で教員の重要性(必要性)を掘り起こし、教員を増やすという理由により重みをもたせることです。また「発達」を語り直すことで、「発達」という言葉を無下にするのではなく、逆説的に発達に対して新たな可能性を見出していきたいと思っています。
先生会を通していろいろと考えたこともあり、いつもとは違うテイストで思ったことを書き連ねました。来月のほどきの講座でも、先ほど書いたことを盛り込みたいなと構想しているところです。
(りょうた)