ストカールさんのこと~異化的なあこがれ~

 ストカールさんの調子があまり良くありません。

 学校の中に入ると、荒々しい言動が頻発するのです。

 先生に対しては物を使って殴るふりをして威嚇をし、注意されたり触れられたりしたら殴ったり蹴ったりします。同じクラスの友達に対しても、わざと物を取ったりして気を引こうとしますが、注意されると手が出てしまいます。

 学校の先生や学校外の支援員、家族など周りにいる人達は、持てる知恵を振り絞りながらストカールさんを懸命に支えようとしています。

 ストカールさん自身、人のことが大好きで、誰かとつながりたい気持ちを人一倍持っています。その反面、人の雰囲気や態度を人一倍感じとって緊張したり、逆に強く前に出ることで上下関係の中でつながろうとします。本当は仲良くなりたいのに、上手くいかないもどかしさに苦しんでいるのだろうと思います。

 家では「(数年前に荒れていた)前みたいに戻りよる・・・」と言っているようで、過去の自分と比べて今の自分の置かれている状況に不安を抱いているのです(詳しくは、過去記事「チガウけどオナジ」を参照。)

 また、ストカールさんが学校に向かうために、玄関を開けてランドセルをひこずりながら重い足取りで一歩一歩進んでいた時のことです。突然ピタッと立ち止まって、方向転換をして、来た道を戻り始めました。そしてお母さんに一言。

「休む・・・」。

 学校に行ったらまた誰かに注意されることをしてしまうんじゃないかと思っているのでしょう。威張って強く見せようとするストカールさんだけでなく、心の奥では不安で迷っているストカールさんも確かにいるのです。

 

 「同化的なあこがれ」と「異化的なあこがれ」

 ほどきでは、川で魚を捕って過ごします。小さな橋から釣り糸を垂らして、カワムツという魚を狙います。しかしあまり待てずに、何度も釣り竿を動かしたり引き揚げたりするので、一向に魚が釣れません。隣では、1人の友達が魚を釣り上げていました。しかもこの間は、ちょうどストカールさんの誕生日でした。ストカールさんはちょっと不満気に、

 「今日、俺の誕生日なのに、何で釣れないの~?」

と呟いていました。

 自分で魚を釣り上げて、自分の誕生日を祝いたいんだなと、私はほほえましく眺めていました。

 釣れない状況は続き、時間だけが経つばかりです。スタッフが釣り方のコツを伝えても、もちろん指示されるのはイヤなので聞きません。

 ふと隣で魚を釣り上げていた友達のことを見つめるストカールさん。友達はうつ伏せに寝そべる形で、橋から顔を出して、釣り糸を上手く微調整しながら垂らしていました。試しにちょっとやってみようと思ったのか、ストカールさんはおもむろに友達の横で寝そべり、全く同じ格好で釣りを始めたのです。

 友達へのあこがれパワーは、こうもあっさりとストカールさんを動かすのですね。すごいなあ。

 ここで1つ、注目したいことがあります。それは「あこがれの質が変わってきている」ことです。

 以前のストカールさんであれば、友達が魚を捕るところを見ると、友達をどかして道具を奪って自分が魚を捕ろうとしていました。しかし今回は、友達に何かすることなく、友達の隣で同じ体勢になって魚を捕ろうとしています。同じあこがれでも、前者はある意味自分が友達になってしまおうとする「同化的なあこがれ」です。一方、後者は友達と同じようにはするけれど、友達とは違う場所や道具でやってみようとする「異化的なあこがれ」です。

 同化的なあこがれから異化的なあこがれへと、つまり一体的だったものが「自分」と「他者」に分かれていく過程は、「自分への価値づけが深まっていく」結果、「他者ではない自分」が認識されていくことを意味しているのではないでしょうか。ストカールさんは誕生日である自分を意識しており、自分の手で魚を釣り上げることがお祝いに値すると思えるからこそ、友達をどうこうしようとするのではなく、自分の場所で自分の力で釣ろうとしたのでしょう。「前みたいに戻りよる」という発言があったのも、過去の自分を参照して現在の自分を価値づけようとする姿と捉えられます。異化的なあこがれからは、そうした価値ある自分を感じ、大切にしようとする心が見えてきます。

 自分への価値づけを深めようとしている時期だからこそ、「どうせダメな自分」と全否定させるのではなく、「何物にも代えがたいストカールさんこそいいじゃん!」と感じてもらえる活動や関わりをたっぷりと保障していきたいと思ったのでした。

(りょうた)

先日は十五夜なのに昼間で月が見えないじゃん!どうするよ!?ということで、子ども達と「少し雲に隠れる月」を作ってテントに貼り付けてお月見しました。

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