「ずれた」コミュニケーション
網を持って魚捕りをしていると、
「ざこ~~~!よわ~~~!!!」と大声で言うストカールさん。
「その言い方はちょっと…」
「まえおかに言ったんじゃないし!」
ストカールさんは人に対してではなく、網に入った魚に対して言ったそうです。
理にかなっているのやら、かなっていないのやら…。
最近は、魚捕りの後にバドミントンをすることがルーティーンになっています。ストカールさんはよく際どいコースを打ち返したり、スマッシュを決めたりと躍動しています。
私がスマッシュを決められてしまった時のことです。こういう時はだいたい「ざっこ~~~!」とか言ってきます。ですがこの日はいつもと違っていました。
「バッタ~~~アウト!!!」
え?なんで、野球?(笑)
バドミントンなのに、なぜかバッターがアウトになった宣告を受けました。
私の中では「ちゃんとからかえてる!」と彼の成長を感じ、嬉しくなった場面でした。からかうことに心動かされる私もどうなんだと思うのですが、今までの彼にはあまり見られない表現でした。
今までは、「ザコ」「バカ」など、多くの場面で単発的でとげのある言葉で表現をしていました。それは手持ちの言葉の少なさがゆえとも言えるでしょう。ただ私が彼と関わってきた経験を振り返ると、人と関わりたい思いが人一倍あるがゆえに、人に対する敏感さが研ぎ澄まされ、不安や心配、照れや恥ずかしさなどの感情が、ガッと湧き上がってくるために、逆に人を遠ざけるような言葉が出てきてしまうのが、彼の隠れた心の動きなんじゃないかなと思います。
「バッタ~~~アウト!!!」という言葉は、表現できる言葉の量が増えたということだけでなく、「なんでバドミントンなのに野球やねん!」とツッコんでしまうような面白さがあり、質的にも表現の仕方が変わってきたことが分かります。
ストカールさんがこうして変わってきた背景はいろいろと考えられるのですが、パッと思いつくのは、周りの大人が関わってきた日々の積み重ねが、彼の育ちにつながってきているのだろうということです。
彼の周りはよくトラブルが起きやすく、そのたびに大人は試行錯誤しながら関わってきました。「バカ」と言うと、もちろん「それを言われたら傷つく」「その言葉は良くない」という注意や指導をするというのが良くある関わりでしょう。私もよくします。しかしストカールさんは意に介さないどころか、逆に激高してしまうこともしばしばあります。彼はそうすることで必死に繊細な自分を守ってきたのです。「バカ」に対して、「きちんとした」コミュニケーションをしようと頑張るほど、ストカールさんも大人もお互いに疲弊していったのです。
では、周りの大人はどうしたのか。「きちんとした」コミュニケーションから、「ずれた」コミュニケーションへと広げていったのです。
例えば、とある先生は、「バカ」と聞いたら
「カ、カ、カラス!じゃあ次、ストカールさんは『ス』から始まる言葉ね!」
としりとりゲームを始めていました。
別の先生は、
「ねえねえ、『バカ』で思い出したんだけど、今日の朝、バカなことしちゃってね~。」
と急に朝の出来事を話していました。
他にも、
「バカじゃないし~!カバだし~!」
という謎の返しもありました。
「バカ」への応答として、注意や指導を含めた「適切な」コミュニケーションをするだけでなく、急にしりとりをしたり、別の話をしたり、言葉をひっくり返したり、ある意味でコミュニケーションを「ずらして」いったのです。上手くいく時もあればそうでない時もありましたが、何年も繰り返されてきたのが、この「ずれたコミュニケーション」でした。そこからストカールさんが本当に望んでいた「人とのつながり」が生まれていったように思います。少なくとも私は、そうして彼とのつながりを作ってきました。彼が発した「バッターアウト!」は、「ずれた」コミュニケーションの心地良さを感じた経験に裏打ちされているように思われます。それは「きちんとした」コミュニケーションの在り方が揺さぶられる瞬間でもあります。
もう1つ大事なことがあります。この「ずれた」コミュニケーションは、最初から狙って意識的にされていたものではありません。彼の言動によって人が傷つく時もあるので、要所要所で注意や指導を入れてはいました。しかしそれだけを続けることでお互いにしんどくなる現実的な問題を前に、「どうしたらあなたと私がしんどくならないか」を日々悩み続けて、周りの大人が編み出してきた共通項が、ずれたコミュニケーションでした。その意味で「ずれた」コミュニケーションには、子どもも大人も育ち合おうと長い年月をかけた実践の束により抽出された、まさに「育ち合いの実践知」として大きな大きな価値があると思います。
(りょうた)