釣り

 この前、ストカールさんがベビーカステラを作っていました。たこ焼き器に生地を流し込んで、つまようじでクルクルと回していました。別の部屋で遊んでいた子ども達も、生地の焼ける香ばしい匂いに誘われて近くにやってきました。たくさんのベビーカステラができた後、みんなが食べると「おいしい!」という声が続々。私(前岡)が「ねえ、みんな、おいしいって言ってるよ」と伝えると、人が絶対入れないような冷蔵庫と食器棚の狭いすき間に体を押し込みながら、「まえおかに言って~(笑)」と照れ隠しをしていました。

 分っかりやすい照れ方。照れ隠しというか、照れ丸出し。

初めての魚

 ストカールさんの活動といえば、釣りです。かれこれ2年ほど、近くの橋で釣りをしてきたのですが、今まで1匹も釣れませんでした。本人は釣る気満々なのですが、釣り糸を垂らして待つのではなく、針を沈めたらすぐに糸を巻き取ったり、ルアーを頻繁に変えたり、釣りをする過程に没頭していました。

 ただ1年前から、仲の良い友達がポンポン魚を釣り上げる様子を観察したり、寝そべりながら振り子のように糸を振って投げる、友達考案の「振り子釣り」を、見よう見まねでやってみたりしながら、少しずつ「自分で魚を捕りたい」という目的が本人の中に明確になってきたように思います。「友達のように釣りたいけど、友達ではない自分が釣りたい」という「異化的なあこがれ」もよく見られるようになってきました(詳しくは2023年10月1日のブログを参照。ほぼ1年前ですね)。

 先日も、友達が魚を釣り上げる中、ストカールさんは魚が食いついてくるのを粘り強く待っていました。その日は、何度も餌がすぐに取れてしまっていました。それに気づいた友達は、「つけようか?」と言って、餌を付けてくれたのです。友達に助けてもらって、再チャレンジ。ストカールさんは水の中で魚が近づいてきているのを橋の上からじっと観察していると、竿に手ごたえを感じたようです。ぐっと引っ張りあげると、なんと魚が食いついていたのです!ついに、初めて、釣り竿で魚を釣り上げました。

 「うわ~!!!やったじゃん!!!」と興奮していた私でしたが、本人は対照的にクールな様子で、また次の魚を狙おうと、釣りに戻っていました。

固有の意味を帯びた「できる」

 私はこれまで子どもの「できる」ことには、あまり注目していませんでした。なぜなら容易に能力的な価値と結びつき、「できる」が優れていて、「できない」が劣っているという視点で子どもを見てしまう危険性があったからです。だからこそ、「できない」の面白さや魅力を掘り下げて考えることが多かったのです。今回、本人がそんなに喜んでいる様子は見られない中で、私の中で「ストカールさんが初めて魚を釣れた」という喜びが出てきたのを振り返り、まだまだ「できるようになるのは素晴らしい」という思想が根付いているんだなと反省的に捉え返していました。

 ただよくよく考えると、それだけで喜びが沸き上がってきたとも思えないのです。おそらく、「魚を釣れる」という「できる」が、一般的な「できる」ではなく、ストカールさんの意味を帯びた「できる」を感じられたことも、私の感情に影響していると考えられます。

 ストカールさんが川岸の雑草に糸を引っかけて釣りが上手くいかなかった時に、「もう帰る!」とふてくされて車に乗り込むと、友達が「これ貸してあげる」と釣り竿を渡してくれ、「やっぱりやる(笑)」と気持ちを立て直すなど、友達の優しさを支えに、釣りに向き合っていました。また友達の釣り姿をじっと見たり、時に「どうやって釣るん~」と不満気につぶやいたりしながら、「釣ってみたい」という気持ちを高ぶらせていました。ある時は、水面に黒い大きな影を見つけ、みんなで「お!あれ、スッポンじゃない!?」と心躍らせ、「スッポン釣ってみたいな~」と次の釣りに期待を膨らませて帰った時もありました。そうして人との関わりの中で、ストカールさんは気持ちを揺さぶられながら、魚を釣ることに彼なりの意味を1つ1つ重ねていったのです。

 次の日、ストカールさんはいつも釣竿を1本しか持ってきませんが、手には2本の釣り竿が握りしめられていました。魚を釣った喜びは、釣り竿の中に見え隠れしていました。

(りょうた)