のびやかな屁理屈

 久しぶりにストカールさんのことを書きます。

 毎度のことですが、ストカールさんは、近くの川へ釣りに出かけています。釣りのエサとしてバッタやミミズを探して針につけるのですが、ストカールさんは自分ではつけようとしません。スタッフに頼んできます。正確には自分でつけられるにもかかわらず、つけないのです。本人曰く、触るのが気持ち悪いとのこと。本当にそうなのか~?単にちょっと不快だったり面倒だったりすることを人に任せてるだけじゃないか~?と訝しく思いながらも、私が活動に入った時は、代わりにエサをつける時もあれば、自分でやってみるように促す場合もあります。どちらにせよ、エサの取り付けを頼まれても、私はそのまま受け入れることはなく、やんわりと断ったりかわしたりします。

 「1回自分でやってみたらいいじゃん」「え~、なんでよ~」「前は自分でやってたよ」

 私の性格もあるでしょうが、本人の自立のためとか、そんな大そうな目的があってこの返事をしているよりは、ストカールさんとのやり取り自体に面白さを感じるために、頼まれても1回渋るようにしています。ややこしい人ですみません。

 それでもストカールさんも、負けじとお願いを重ねてきます。

 「やってよ~」「できないって~」「無理だって~」

 ストカールさんの言葉の広がりを感じ始めてから、お願いの仕方も少しずつ変わってきました。

 「まえおかのバッタ(エサ)も捕まえとくから」

 報酬とセットで提示してくるなんて、世渡り上手になりましたなぁ。

 

 そしてつい先日のことでした。「前は自分でエサをつけてたから、やってみたら?」と尋ねてみた時、ストカールさんがこう言いました。

 「前は前。今は今」

 なんかうまく説き伏せられてるような…。でもこれまでにない頼み方に変わってる!

 ストカールさんによる一連のお願いは、何が何でもエサをつけてもらおうとするための「屁理屈」のように聞こえます。エサの取り付けを頼む目的のために、とにかく理由をぶつけてくるのです。理に適う形で相手を納得させるのが「理屈」であるに対し、理に適わずとも理由をひねり出すのが「屁理屈」です。そのため、屁理屈は人を煩わせるネガティブなものとして理解されやすいですが、ストカールさんの「前は前。今は今」から、もう1歩踏み込んだ捉えもできるのではないかという気づきがありました。

1、過去の視点で深まる屁理屈の世界

 現在の視点だけで屁理屈を言うならば、「前はできていたけど、今はできないのはなぜか」に対して、例えば「無理なものは無理」という同じ言葉の繰り返しになりえます。しかし、現在から過去に自分の視点を移すようにもなってきたストカールさんは、「前は前。今は今」という「前」と「今」を分けて考えることで、私の発言を上手く切り返しています。過去という時間軸が、屁理屈の世界を一段と深めてくれるのかもしれません。

2、理屈の正しさと屁理屈ののびやかさ

 理屈は論理性や合理性が求められます。相手が納得するための正しい理由です。しかし屁理屈は正しさよりも、むしろ理由を出すことそのものが求められます。こうした意味で、単なるわがままというよりも、正しさから自由になりながら、自分を出していく、ある種ののびやかさがあるとも受け取れます。屁理屈よりも理屈による筋立てられたやり取りが評価されやすい中で、ストカールさんの屁理屈には、彼の世界から始まる創造的な奔放さを垣間見たように思います。これからはより一層手こずるようになるかもしれませんが、どんな言葉を投げて手こずらせてくれるのかという期待感も出てきます。いや、これは私だけかもしれませんね。

 ストカールさんの発する屁理屈にひきつけられるからこそ、今日もまた私は、エサの取り付けをやんわりとかわします。

(りょうた)

新聞紙で作った手作り(半魚人)仮面に、子どもがカラフルな色を塗ってくれました。

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