子どもが抱えるしんどさ
子どもの現状について、よく使われやすい言葉から考えてみたいと思います。
「椅子に座って背筋を伸ばして良い姿勢で話を聞きましょう」
「相手の目を見て元気に挨拶しましょう」
「少しでもできることを増やしましょう」
こうした当たり前として使われる言葉達を前に,適応できる子ども達もいる一方で、適応できずにしんどさを感じる子ども達がいます(例、発達障害、不登校)。周りの様子を伺いながらなんとか頑張ろうとするけれど,なぜかうまくいきません。その人数は、年々増加してきています。
「学び」が揺るがない
気になる子どもを目の前にした時、子ども「だけ」が変わることを求め、子ども「だけ」が変わる支援が生み出されていくのが、教育現場でも福祉現場でも主流になっています。「良い姿勢で勉強できる子どもになる」「挨拶できる子どもになる」「できることがたくさんある子どもになる」・・・。
そうした願いは、周りの大人が子どもと紡いできた過程や歴史から来るものであり、安易に否定されるものではないでしょう。しかし、良い姿勢によって逆に勉強に集中できない子どもがいたり、挨拶に極度の緊張を感じる子どもがいたり、できている理想の自分を求めてできなさを抱える今の自分を否定し続ける子どもがいるのも事実として目を向ける必要があるでしょう。
『子ども「だけ」が変わる』というのは『私達は変わらない立場にいる』ということ、つまり、社会が当然視する「学び」が揺るがないということです。ここでの「学び」とは、国語や算数のような学習という意味合いよりももっと広い範囲を含んでおり、私達がこれまで身につけてきた知識・経験・価値観の総称のことを指します。「学び」は、私達の社会が当たり前として大事にしており、その社会を土台として私達は生きてきました。私達は「学び」を大事にして、子どもに関わろうとします。しかしその「学び」が絶対化・固定化される時、その「学び」によるしんどさは生み出され続けます。
そして「学び」から生み出されるしんどさは,実は、家族や学校の先生,地域の人達,筆者の私自身やこれを読んでいるあなたを含めたしんどさとも,つながっているような気がしています。あなた「だけ」が変わりなさいと求められるような周りの雰囲気を感じることで、私達は自己責任を強く感じ、やり場のない思いに苦しんでしまいます。

「学び」をほどく
社会が多くのことを求めてしまい,窮屈になってしまった「学び」にゆとりをもたせ,隙間を与えたいです。私達はそれを『「学び」をほどく』と呼んでみたいと思います。「よくわからんけどおもろい」が学びになったら・・・。「ムダ」や「ボチボチ」や「テキトー」も学びになったら・・・。そんなことを一緒に考え合う中で,子ども,家族,学校,地域がつながり,1人1人にとって大事にしたい新たな学びへと編み直される(模索される)場になることを願っています。
