子どもの「学び」の現状

 「椅子に座って背筋を伸ばして良い姿勢で話を聞きましょう」

 「この宿題を〇○日までに提出しましょう」

 「相手の目を見て元気に挨拶しましょう」

 当たり前として使われる言葉達を前に,多くの子ども達は楽しく学校生活を送っています。これもある意味,国語や算数などの学びを取り巻く大切な「学び」として広く受け入れられています。ただ一部の子ども達にとっては,しんどさを感じることがあります(例、発達障害、不登校)。周りの様子を伺いながらなんとか適応しようと頑張るけれど,なぜかうまくいきません。結果として,クラス集団からどんどん外されていってしまいます。

 こうした子ども達をサポートするために,全ての子どもにとってできる・わかる環境づくりを目指した「ユニバーサルデザイン」という方法を取り入れたり,特別支援学級や特別支援学校が拡充してきている動きがあります。

 子どもが安心して学べる環境が整えられていくことは大切なことですし,しんどかった子ども達が救われることもあるので欠かせない支援です。

「学び」が揺るがない

 一方でこのままでいいのかなとモヤモヤすることもあります。それは(学校教育を通して見えてくる)社会が当然視する「学び」が揺らがないということです(急いで断っておきたいのですが、上の言葉が良くないという単純な結論ではないですし、子どもの成長に大切な部分もあると思います)。私達を含む社会は「学び」とはこういうものだ!と信じ,子ども達に速く適応できるようにさせようとする傾向にあります。そうして社会が共有する「学び」が,子どもにとってどういう意味を持っているのかを考える余裕がなくなっています。

 もちろん適応できなくても特別支援学校など他の学びの場所が保障はされています。しかしそもそも社会が当たり前としている「学び」を問うことがなければ,適応を突き付けられる子ども達のしんどさを解消することは難しいでしょう。そしてそのしんどさは,家族や学校の先生,地域の人達,筆者の私自身やこれを読んでいるあなたを含めたしんどさとも,つながっているような気がしています。

「学び」をほどく

 社会が多くのことを求めてしまい,窮屈になってしまった「学び」にゆとりをもたせ,隙間を与えたいです。私達はそれを『「学び」をほどく』と呼んでみたいと思います。「よくわからんけどおもろい」が「学び」になったら・・・。「ムダ」や「ボチボチ」や「テキトー」も「学び」になったら・・・。そんなことを考えていく中で,子ども,家族,学校,地域がつながり,1人1人にとっての「学び」が編み直される(模索される)場になることを願っています。