自分でないけど自分であるなりきり
ほどき劇場開演
最近、ほどきのとっとでは劇場が開かれる。
「私たちが守る!」
「ここは危ないわ!早く逃げて!!!」
「回復薬はまだあるわ!」
ほどきのとっとが誇る4人の役者陣が繰り広げる舞台は、2m×3mのちょっと大きめなプールの上。
小学生とは思えないほどの抜群の演技力、即興とは思わせないセリフ展開、泳ぐ・潜る・水をかけるなどプールを使ったド迫力スペクタクルアクションが詰め込まれた劇場となっております。
子ども達の話をよくよく聞いてみると、今日はどうやら人間と人魚が戦いをしているよう。
「どうしてあなた達人間は、私たちを襲うの?」
人魚達は懸命に1人の人間に訴える。
「お前たちは絶滅危惧種だ。。。お前たちを1匹でも捕まえたら博物館に入れられる!」
小学1年生の男の子演じる人間はそう答える。
まず絶滅危惧種とかよく知ってんな~とセリフに驚かされますね。加えて注目するべきは、人魚を襲う理由です。博物館で見せ物にするために、希少な人魚を捕まえるという、まさに資本主義社会が生み出す人間の搾取構造を表しています!
なんて深いんだ。深すぎる!
道徳の授業よりも道徳の授業になってるんじゃないでしょうか?
何かになりきるということ
生き生きと演技をしている子ども達を見ると、こうやって自分ではない何かになりきるって結構大事だったりするんじゃないかと思います。
でもその一方で、自分ではない何かになりきらないといけない!と自分を追い詰める状況は違うなあと思います。
「いつも大きな声で元気に挨拶をしよう(とする人になろう)」「積極的に手を挙げて発表しよう(とする人になろう)」
そうやって元気はつらつとして、できることが多いような人間像に、多くの子ども達はなろうとしています。でも全員がそうなるべきかどうかは疑問に残るところです。
挨拶に関しては、体調が良くなくて元気じゃない時もあるし、そもそも大きな声や笑顔といった指標が、「元気」を普遍的に表しているわけではないでしょう。また積極的に発表できなくても、まずは自分の中でじっくり考えている時間なのかもしれないし、口頭ではなく書字の方が発表しやすいかもしれません。同じ人間像になろうとする同質性に溢れた環境では、 一部の子ども達は自分とは合わない人間像になろうとしてしんどさを積み重ねていくんだろうと思います。
2つのなりきりの違い
何かになにきることについて、2つのパターンを見てきました。プールで即興的演技を繰り広げるなりきりと、同質的な人間像のなりきり。
同じなりきることなのに、何が違うんでしょうか。
たぶん自分らしさが大切にされているかどうかが決定的に違うんだと思います。
前者は「絶滅危惧種」という言葉を使い、人間が人魚を襲う理由を見事に作り出したのは、あの小1の彼だからこそできたことだろうと思います。他の子だったら、別の演技になっていただろうと予想できます。そこには彼らしい表現であったり、彼らしい経験に基づくセリフがあります。
子どもが見せてくれた演劇は、自分ではない何かになりきっているけれど、自分になっている(≒自分を大切にする、自分が大切にされている)重要なパラドックスがありそうです。
一方後者は、自分らしさをなるべく無くして、周りから求められている人間像になりきろうとしています。自分らしさとなりきる人間像とがかけ離れている子どもは、自己否定を続けることになるのでつらいですね。
自分でないけど自分であるなりきり・・・
そんなことを考えながら私は、炎天下の中「いいから早く逃げて!」という迫真の演技を鑑賞するのでした。
(りょうた)

