「かっこいい」が出てくる時

 16歳のタツキさんは、論理的かつ冷静に物事を捉えようとする一面があり、よくハッとさせられます。

 学校で自己紹介カードを作る時、「好きな食べ物」と「苦手な食べ物」を書く欄がありました。彼は「好きな食べ物」は空欄であるのに対し、「苦手な食べ物」には

「『好き』の反対は『苦手』ではありません」

と書いていました。

 確かに。『好き』の反対は、『嫌い』やもんな。よく気づいたな~。

 さらに「自分の良いところ」という欄には

「それを自分で言いますかね?」

と書かれていました。

 納得。ひけらかす感じあるもんな~。

 そんなタツキさんは、私とあまり会話をすることなく、活動に誘っても断り、うつむき加減で携帯を触っていました。彼と関わりを持つことができる手がかりを探ろうと、少しずつ雑談を重ねていきました。するとタツキさんには「ジョジョ」という漫画をよく読んでいることが分かってきました。漫画だけでなく、アニメや考察動画も丁寧にチェックしているようなのです。

 私はジョジョについて何も知らなかったので、タツキさんから教えてもらうことにしました。彼はストーリー展開から登場人物などを細かく話してくれ、私の質問にも的確に答えてくれました。敵との駆け引きが丁寧に描かれるとされるバトルシーンを聞いていると、「これは確かに面白いかも」と思わされ、どんどんと彼の話に引き込まれていきました。そうして気が付くと、タツキさんとの間で自然と会話が増えていったのです。

 タツキさんとの出会いから半年が過ぎる頃、「かっこいいキャラがいてね」「イケてるシーンがあるんよ」と意気揚々と教えてくれました。この時、私は今までになかった彼の大きな変化を感じました。

 振り返ってみると、学校や家、ほどきを含め、どんな場面でも、タツキさんの言葉は、自己紹介カードの間違いを正したり、漫画の説明をしたりと、客観的な視点から出てくることがほとんどでした。

 しかし、彼がよく読む漫画の話を続けていくうちに、「かっこいい」や「イケてる」といった、主観的な視点で彼が価値あると感じる事柄を伝えてくれたのです。

 ここで、青年期に見られやすい「コミットメント」という考え方を用いながら、タツキさんの変化を整理していきたいと思います。

 自分づくりのコミットメント

 心理学の分野では中学校や高校に当たる青年期において、「自分」が分かってくる「アイデンティティ」が形作られると言われています。そのアイデンティティの確立には、自分にとって大切な領域に積極的な関与をするという「コミットメント(commitment)」が欠かせないのです。日本語では、献身や傾倒という意味になります。

 タツキさんは、ジョジョという自分が読み込みたい漫画があり、その漫画に積極的に関与する(コミットメントする)ことで、他の人の好みではなく、「これがかっこいいんだ」「これがイケてるんだ」という自分だけの価値が明確になったように思われます。このように青年期において、好きなことを深く追求していくことは、自分をつくることに大きくつながっているのです。

 もちろん、例えば生活リズムが崩れてしまうほどゲームにのめり込んでいたりする場合などは特に、ゲームにコミットメントしているわけではなく、上手くいかない不全感や誰も見てくれない孤立感を解消するための代償的な行動になっている可能性もあるので、本当にコミットメントしていると言えるのか、子どもに応じて吟味が必要になってくるでしょう。

 つながりのコミットメント

 自分づくり以外に、もう1つコミットメントの意味することがあります。それは、1人で完結するのではなく、人と関わるということです。最近、「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」という本を読んだのですが、コミットメントについてこのように触れている箇所がありました。

“コミットメントというのは何かというと、人と人との関わり合いだと思うのだけれど、(中略)「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです。”

河合隼雄・村上春樹 (1999). 村上春樹、河合隼雄に会いにいく 新潮文庫

 コミットメントは、自分1人だけで閉じるのではなく、「関わり合い」と言っているんですよね。さらに最終的に「つながる」とも述べられています。なるほど、好きなことに1人で熱中している姿とはまた違うようですね。子どもの興味を深く理解していくような関わり合いが、その子が感じる価値を共同的に形作ることになり、じっくり関わっていく先に人とのつながりが見えてくる。これがコミットメントの姿なのでしょう。

 確かに語源から考えても、コミットメントはコミット(commit)という動詞の名詞形であり、コミットは、「ともに(com)+送る(mit)」となっています。ある対象に自分の興味を「送る」には、誰か「ともに」送ってくれる人の存在が大切であることを示しているのではないでしょうか。

 この頃、「好きなことをする」という言葉は、多くの現場で逆風となりやすいですが、自分の価値を見つけたり、人とつながるというコミットメントの視点から考えると、発達的な意義は残されているでしょう。周囲の不安や苦悩を考えると、「好きなことをする」が単純に美化されるのも心配なのですが、個人的には、目の前の子どもに対して「生き生きしているな」と実感できるのであれば、それに勝る意義はないほどに大きな可能性を秘めていると思っています。

(エピソードはフィクションですが、エピソードの中心にあるのは、実際に見聞きして感じたことになります。)

(りょうた)

ほどきの前にある「あやハウス」という建物で、子どもと一緒に秘密基地作り中。