支援の場に思うこと~私の経験の中で感じてきた違和感~

【ある日の出来事で気づいたこと】

 リュックを背負ったまま外をうろうろしている。その姿から感じることは、「今日は外で遊びたい気分なんだな~」ということ。目についたものを手に取ってみる。何か面白いイメージは、、、湧かない。ほかになんかないかな~。その間リュックを背負ったまま。

 「とりあえず荷物置いておいでよ」と声をかけたくなる。(言葉を飲み込み様子を見る)

 古い木で作った小さな看板を見つけた。彼はそれを持って、畑を耕す鍬のように地面に一撃!

 「畑を耕すおじいさんみたい!」とスタッフが一言。決まった!今日のイメージはこれだ。

 「あ、そうか。」彼は思い付き室内へ。自ら鞄を置いてきた。

 そして二人でおじいさんになりきり、鍬とパイポ(彼が名付けたパイプ)をもって散歩に出かけた。「いや~春の散歩はいいですな~」と言いながら川沿いを歩き、餌になりそうな幼虫を見つけて釣竿を作って釣りをした。「ばあさんにもダメとは言われてないし、今夜は飲みに行こう!」と誘ってくれる。爺さん最高!

【遊びの探し方】

 いつも遊びを思いつくまでふわ~っと動いている。スタッフが提案してもはっきりとしない返事を返す。“なにかやりたいことはありそうだ”と思わせる。彼の思いを理解できず困惑する大人。言葉にしてくれたらわかるのに。

 しかし、このよくわからなさこそ彼らしいのだ。このやりたいことがあるようなないような、それでいてやりたいことが決まっていそうな彼の様子になんと言葉をかけるのがいいのだろう。

【支援の在り方に思うこと】

 例えば、朝やってきたら鞄の中身を引き出しに入れたり、提出物を出したり、身支度を整えてから始めようとするのが大半の流れではないかと思う。彼のようにいつまでもリュックを背負ったままというのは、大勢の人の流れとは違ってしまう。“今やることがわかっていないのかな?”と見立てれば、「できないこと」として支援の方法を考える。私も集団の中にいるときはそうしてきた。でも今ははっきりとそれは違うとわかる。だって、自分でちゃんと置くべきところにリュックを置きにいけるもの。しなければならないことは分かっている。だから、「先に鞄置いておいでよ」と言われれば「わかってますから」と言いたくなるだろうなと思う。

【期待すること】

 そんなことは分かっているよ。誰だってそうしたい。自分のペースでできるまで待つことならやってあげたいよ、一人ならね。集団生活の中ではそうも言ってられないんだよ。そんな声が聞こえてきそうだ。

 その子が自分でできることは何なのか?本当に手順が理解できていないのか?

 例えば朝の支度の時間に、その子がやりたい順番で、自分で考え、自分のタイミングでしてもいいゆとりがあったなら、気持ちよく一日をスタートできるだろうと思う。時間の枠だけはあって、ランドセルを背負ったまま今日は何して遊ぼうか、校庭を眺めに行ってもいいじゃない。集団の中で行われる個別の支援。集団に近づけるためではなく、その子一人を理解するための支援にしてほしい。そしてそこに寄り添えるのは大人だけじゃなく、子ども同士になっていく。社会の中にそんな小さな場所を作りたい。同じ思いで子どもたちに寄り添う人を支えたい、つながりたいと思っている。(とりかい)