教えるということ

 幼稚園の3歳児クラスに訪問に行った時のことです。

 その日の活動は、パンケーキ作りでした。

 調理をする前に、全員がエプロンとマスクをつけ始めました。

 私が子ども達の様子を見ていると、ちーちゃんという子が私の方に近寄ってきて、「できな~い」と手に持ったマスクを渡してきました。耳にマスクを付けるという操作が、見ながらできることではないので苦戦しているようでした。

 私はちーちゃんにマスクを付けましたが、しばらくしてまたちーちゃんがやってきました。片耳からマスクのひもが外れた状態で「取れた」と困惑した表情。自分でマスクを付けようとしますが、なかなかマスクのひもが耳に引っかかりません。そこで再び私がマスクを付けることになりました。「髪が耳にかかって、ひもが引っかけにくそうだな」とか「マスクをする位置がずれているのかな」と考えながら、私がマスクをつけようとしていると、手際が悪かったのか、ちーちゃんが一言、

 「もっと耳の奥にするんだよ!」

と教えてくれました。

 なぜかマスクをしている私が、マスクをしていないちーちゃんに、マスクの付け方を教えられました。ちーちゃんの言葉を聞いて、「何で自分が教えられる立場なんだ…」と思いましたが、後でよく考えると興味深い姿だなと思いました。

 3歳児の「教える」

 1つ目に、発達的に3歳児らしさがよく表れているということです。3歳頃は、自信に満ち溢れやすく、「やってみたい!」「できる!」という気持ちが強まります。現実的にできるかどうかよりも、自分自身への大きな自信を持って行動することから、「いっちょまえの3歳児」という代名詞が使われるほどです。

 「マスクが付けられない自分」が意識されていると、マスクの付け方を教えてもらうことはあっても、できないことを自分から教えることはなかったでしょう。しかしちーちゃんからすると、1回でマスクを付けられず、2回目でも手際の悪い私がマスクを付けられない人に見え、自分ができるかどうかはさておき、「仕方ないな、この人に教えてあげなきゃ」という気持ちになったんだろうと思います。もしかしたら、「自分ができないことを教える」姿は3歳頃によく見られるのかもしれないな~と考えていますが、どうなんでしょうかね。

 できなさが生み出す「教える」

 2つ目に、自分ができるかどうかに関係なく、教えるという営みは生み出されるということです。教えることは、できる人ができない人に対して行われる、ある意味「できる人の特権」的に見られることが一般的ではないかと思います。しかしちーちゃんの姿からは、必ずしもそうではないことが分かります。自分ができなくても、教えられるのです。こう考えると、「教える」というのは、思っていたよりも多くの人に開かれた概念なのかもしれません。

 しかもちーちゃんの場合は、自分だけでなく相手もできない状況で「教える」が生み出されました。ちーちゃんは自分でマスクを付けられない、私はちーちゃんに上手くマスクを付けられない。それでも2人で何とかマスクを付けようとした結果、ちーちゃんが教えてくれたのだと思います。このように考えると、「教える」というのは、できる人ができない人へ一方向的になされることだけでなく、できなさを抱えた人達の間で、できるようになろうとする中で共同的に現れる場合もある気がしています。

 ちーちゃんのマスクは何度も外れてしまったのですが、そのたびに私の方に来てくれ、2人でパンケーキ作りよりもマスク付けを頑張っていたように思います。

(りょうた)

地域づくりの一環として、ほどきのとっとにキッチンカーがやってきました。